01
脳腫瘍が見つかったのは、頭を強く打ったからでした
小学1年生のときです。体育の前の時間に友達と丸太の上で遊んでいて、突き飛ばされました。コンクリートに頭をぶつけ、触ると陥没しているのが手の感触で分かりました。
不思議と慌てはせず、血を流しながら自分で保健室を探して校内を走りました。そのまま病院へ行き、レントゲンを撮りました。
そこで、たまたま脳に腫瘍があることが分かりました。けがの検査で偶然見つかった、というのが始まりです。
困難の中から笑顔と光を届ける——マジシャンDaiSukeの歩みをご紹介します。

「彼方(あなた)に大きな幸せが訪れますように」という想いから、自然と笑顔になるショーを行う、世界1明るい障害者マジシャン。6歳で脳腫瘍が発覚し、手術を受けた現在も、左目失明・右目半盲・嗅覚喪失という障害(ハンデ)を抱えながら活動しています。
持ち前の明るさと、入院期間で習得した高度なテクニックが根底にあるショーは、観客を引き込み、ご依頼くださった方々にきっとご満足いただけるはず。初めて会う人は、本当に障害があるのか疑うほど——障害を感じさせない、不思議で元気が出てくるパフォーマンスを日々届けています。
ご登録不要でダウンロードいただけます。各資料の詳しい内容は資料ダウンロードページをご覧ください。
お問い合わせから当日まで、会場や目的に合わせて最適なショーをご提案します。マジックの専門知識は不要。初めての方も安心してお任せください。
人気講師に学んだトークで会場をひとつに。老若男女問わず引き込み、驚きと笑顔で一体感のある時間をお届けします。
障害を抱えながら活動するDaiSukeだからこそ伝えられる前向きなメッセージ。マジックの先にある「想い」を会場に届けます。
1997
1997年4月7日、ロンドンにて男女の双子として生まれる。
小学生
小学生のときに先天性の脳腫瘍が発覚。手術を受け、左目失明・右目半盲・嗅覚喪失という障害を抱えることに。
中高生
周囲との違いに思い悩み、自分の境遇をなかなか受け入れられない時期を過ごす。
高校
高校の部活動でマジックと出会い、夢中に。初めて覚えたマジックを母に見せたときの反応が忘れられず、のめり込んでいく。
20代
母に勧められた試験に合格し、渋谷区の正規職員に。コロナ禍にその職を手放し、マジシャンの道を選ぶ。
現在
「彼方(あなた)に大きな幸せが訪れますように」という想いを込め、全国へ笑顔と感動を届けている。
01
小学1年生のときです。体育の前の時間に友達と丸太の上で遊んでいて、突き飛ばされました。コンクリートに頭をぶつけ、触ると陥没しているのが手の感触で分かりました。
不思議と慌てはせず、血を流しながら自分で保健室を探して校内を走りました。そのまま病院へ行き、レントゲンを撮りました。
そこで、たまたま脳に腫瘍があることが分かりました。けがの検査で偶然見つかった、というのが始まりです。
02
小学6年生の秋。中学受験のため、毎日自転車で塾に通っていました。なんとなく右側が見えづらいな、とは思っていました。
帰り道、坂道をものすごい速さで下っていると、急に目の前に人が現れて衝突しました。相手の方はずっと怒っていましたが、私はそれよりも「この人は一体どこから出てきたのだ」と呆然としていました。
今思えば、腫瘍の影響で右目の右側が少しずつ欠け始めていたのだと思います。結局、右目の右半分が見えない状態のまま受験をしました。
03
中学1年で腫瘍が進み、一度は見えるようになっていた目が、また見えなくなってきました。左目の視界には網のようなものがかかり、その網がだんだん増えて、光を感じにくくなっていきました。
中学2年になる直前の3月、手術を受けることができました。執刀してくださったのは、「ゴッドハンド(神の手)」と呼ばれる脳神経外科医の福島孝徳医師です。当時の私は「運が良かった」と思っていました。
実際は違いました。腫瘍が見つかってすぐに母が調べ、その医師に連絡を取り続け、6年待ってようやく順番が回ってきたのだそうです。
手術の途中、医師が両親のもとへ来たと聞いています。左目の視神経を取らなければならない、その許可を得るためでした。命が助かるなら、と両親は承諾しました。
麻酔が覚めて、左目が見えなくなっていることを確認しました。そこまでは覚えています。ただ、そのとき落ち込んだのか、泣いたのか、平気だったのか——まったく記憶がありません。
04
高校受験のときです。滑り止めの高校に模試の結果を持ち込むと、「面接で第一志望と言っていただければ入学させます」と約束をいただいていました。
合格は確実だと思っていたので、その結果を誰よりも先に自分の目で見たくて、母には「通知が来ても開封しないでね」とお願いしていました。
ところが、何度聞いても「まだ届いていない」と言われます。何度目かに尋ねたとき、母が真剣な表情で打ち明けてくれました。実は開封してしまっていたこと、そして不合格だったことを。
母は落ち込んでいました。障害があると、いくら頑張っても無駄なんだ、大介に本当に申し訳ないことをしてしまった、と。その話をしてくれた日は、2人で大泣きしました。
それでも、まだ願書の提出が間に合う高校がありました。最終的には倍率5倍の高校に合格することができました。そして、その高校でマジックに出会うことになります。
05
最初にマジックに触れたのは小学3年生のときでした。アトピーの治療で高知県まで入院した際、病院のプレイルームにたまたまマジックの本があり、そこに載っていた手品をやってみたのが最初です。すぐにやらなくなりましたが。
本格的に始めたのは高校です。マジックジャグリング部という部活で、初めて人からマジックを教わりました。
覚えたばかりのマジックを母に見せたとき、驚くほど反応が良かったのです。それがあまりにも嬉しくて、のめり込むようになりました。今も、根っこにあるのはあのときの反応です。
06
高校2〜3年の頃です。薬の服用が多く、常に時間を気にする毎日でした。加えて、毎晩9本の注射をしていました。左目は失明し、右目は右半分が見えない状態です。
その頃、友達の家に泊まったり、旅行に行ったり、徹夜で遊ぶ機会が増えました。夜になると私は薬を飲み、嫌な注射をしなければなりません。夜が嫌いでした。
友達は当たり前のように、眠くなったら寝る。時間を気にしなくていい。それが本当にうらやましくて、同時に「なんで自分だけ」と思っていました。
周りとの差を自覚してから、毎日のように母の前で「死にたい」と言うようになりました。本当は、まったく死にたくなんてないんです。それでも、日々のギャップの辛さから口に出していました。母は何も反応しませんでした。
ある日も、同じことを言いました。すると母が、突然号泣し始めたのです。
ここまで頑張って生きてきたんだからさ、そんなこと言わないでよ!
母が泣いたことが、あまりにも衝撃的でした。自分のことで涙を流してくれる人がいることにも驚きました。
自分の身体のことなのに、自分以上に心配してくれていた人が、こんなにも近くにいた。本当にダメなことをしてしまったと反省しました。母のためにも死ぬ気で生きようと決めた、人生が大きく変わった日です。
07
大学で実家を離れると、薬と注射の管理ができなくなりました。ホルモンを補充しているので、切れると体温が調節できず、冬は33度台、夏は38度台になります。気力がなくなって寝たきりになり、そうするとまた薬が飲めない、という繰り返しでした。緊急入院を何度も重ねました。
そんな中、12月5日に主治医から言われました。この冬を越えることはできない、と。
ただ、私はまったく死ぬ気がしませんでした。周りには「絶対に死なない」と言って歩いていました。そして友人たちと新年を迎え、無事に生還しました。
08
大学を中退したあと、しばらくはマジックバーでたまに働くくらいで、ほとんど仕事がありませんでした。
ある日、母から「こんな試験があるから受けてみない?」と言われ、少し勉強して受けました。実は、何の試験なのか知らずに受けていました。地方公務員試験だったと知ったのは、一次試験の合格通知でです。
結果、渋谷区役所の正規職員として働くことになりました。安定した仕事でしたが、コロナ禍にその職を手放しました。貯金も仕事もない状態からの再出発です。
09
マジックバーで働くようになり、また夜型の生活が始まりました。1年以上続けたある日、また緊急入院です。注射も薬もできていなかったことが原因でした。
主治医からは、夜の仕事を完全にやめること、そして家族にしっかり管理される生活を送ることを言い渡されました。マジックバーで働けなくなり、収入は完全になくなりました。
そこから、イベントに出張するマジシャンとして活動を始めます。とはいえ営業をしたこともなく、人脈もほとんどありません。無収入の時期がしばらく続きました。
10
ある日、先輩のマジシャンから言われました。
大介の強みは、障害があるのに、それをまったく感じさせないことだよ
同じ時期に、友人からも言われました。障害があるのに明るくポジティブなことが励みになっていて、落ち込んだときにいつも助けられている、と。
それまで私は、障害を前に出すものではないと思っていました。この2つの言葉で、隠さなくていいのだと思えるようになりました。むしろ障害者マジシャンとして、より多くの方に元気や勇気を届けたいと思うようになったのです。
こうして「世界1明るい障害者マジシャンDaiSuke」が生まれました。
ショーの根っこにあるのは、あのとき母が驚いてくれた反応と、泣いてくれた言葉です。目の前の方が笑ってくださる時間を、これからも作っていきます。